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感想・備忘録・夏休みの自由研究

7月の履修作品

2024/07の履修作品メモ。

 

アプリゲーム『Fate/Grand Order』期間限定イベント「踊るドラゴン・キャッスル!」

https://news.fate-go.jp/2024/dragon_castle/

「また会えると信じているからこそ、二人は頑張れるんです。」

七夕イベント。
物語(∋歴史)によって引き裂かれる二人(シーボルトとお瀧、浦島太郎と乙姫など)を、七夕伝説の彦星と織姫に準えたようなお話。別離で終結した物語の、そのあと。
会えない時間も、会えることを希望(道しるべの星)として生きてゆける。

 

漫画『さよなら絵梨』

「ファンタジーがひとつまみ足りないんじゃない?」

この作品は3つの「映画」で構成されているメタフィクションである。「母の死までを撮ったドキュメンタリー」「絵梨の死までを撮ったドキュメンタリー」「その2つの映画を撮っている主人公の現実を撮った映画」。どこからがフィクションで、どこまでが現実なのかがわからない入れ子構造。
最初から最後までスマホカメラでの(映画にするための)撮影映像であることの演出として、大半のページが横長の4コマで構成される。その性質上、コマのほとんどは主人公の視界(カメラの視界)である。ただし、映画を見ているシーンは主人公の姿が客観的に描かれる。藤本タツキ、映画を見ている人間をスクリーン視点で描きがち。好き。

……実際にどこからどこまでがフィクションなのかは不問に付したい。現実は人間には把握しきれないほど無限大で、あまりにも差異に溢れている。人間は多かれ少なかれ、ある種の「切り取り」(抽象化)をして、いわば幻想の中に生きている。『さよなら絵梨』で「映画の中の人間が美化されていた」のは、ある個人の恣意的な「切り取り」を、他人に共有可能なものとして固定するという話だったんだと思う。

そして、人間はひとつのフィクションにずっと留まっているわけにはいけなくて、いつかはお別れしないといけない。虚構と現実が混然とした世界に別れを告げて、現実へと帰っていく。それは「想像の中で遊んでいないで現実を見ろ」というような類のものではなく、「現実という、ある個人の前に立ち現れる巨大な虚構」への抵抗としてのフィクション。そのためのこういったメッセージ性は『moon』や『FINAL FANTASY Ⅷ』などで私が見出しがちな、好きな概念。

爆発オチなんてサイテー!

 

アプリゲーム『アイドルマスター シャイニーカラーズ』イベントコミュ「綺羅星ルックバック」

「キラキラが強すぎて目が眩む――……けど、よそ見なんてさせてもらえない」

放課後クライマックスガールズのお話。メインはちょこ先輩と果穂。
綺羅星は「放課後クライマックスガールズ各々は、枠が限られている場合には、互いに遠慮なんかせず正々堂々勝負して枠を取り合う、ギラギラの星」ということ。ルックバックは「過去の振り返り」というのと、たぶん「respect(尊重する)」も掛けている。お互いを信頼して尊重するからこそ、正々堂々戦うことができる。
ポストの中にあるはずの手紙がなぜか変なところに落ちていて、それをポストに返そうとなったくだりがあった。その過程で、気遣いが変な方に空回りしてしまっている果穂を相手に、ちょこ先輩が一緒に悩んであげる。あるべきものを、あるべき場所へ戻す話でもある。

 

アプリゲーム『アイドルマスター シャイニーカラーズ』イベントコミュ「きよしこの夜、プレゼン・フォー・ユー!」

クリスマスの日。「283プロの社長が昔アイドルを担当していた話」(回想)と、「サンタのコスチュームに身を包んだ283プロの面々がPに資料を渡しにリレーをする生放送番組の話」(現在)が並行して展開される。社長はそのアイドルを「売れるアイドル」の枠に押し込めて、結果的に台無しにしてしまった。鳥かごの中の鳥は安全だけど、自由ではない。たぶん、283(つばさ)と掛かっている。

 

アプリゲーム『アイドルマスター シャイニーカラーズ』イベントコミュ「薄桃色にこんがらがって」

アルストロメリアなんか、大っ嫌い…………!」

アルストロメリアのお話。千雪さんと甘奈の対立。その間に立つ甜花。
千雪さんの気持ちがけっこう刺さった。昔なくした宝物が、また見つかったとたんに、誰か他の人に奪われてしまいそう、という感覚。しかも、その「他の人」は身近で、大切な人(甘奈)。どっちを優先するべきか、心がぐちゃぐちゃになる。対立したら、元には戻れないんじゃないかという恐怖もある。
思っていることと反対のことを言う「反対ごっこ」。人間って相反する感情を抱くものだから、反対のことを言っているようで、実のところは普段曝け出せない暗い本心の吐露の役割を果たしている。その暗い感情を自分の外側に表出させることで、向き合うことができる。
雨降って地固まる。3人でアルストロメリア

[参考:Olive (雑誌) - Wikipedia

 

アプリゲーム『アイドルマスター シャイニーカラーズ』イベントコミュ「アンカーボルトソング」

「う、うん……ずっと、このまま……いるなら……
ずっとこのままじゃ……いれない………………」

アルストロメリアのお話。「変わらないものを信じる話」だった。今まで読んだシャニマスのコミュの中で一番良かったし、たぶん個人的には一番好きな話だと思う。
工事、雨の日、2つの傘の下、3人で。
アンカーボルト(変わっていくものを、変わらないものと結びつけるための)ソング。音は発した瞬間に消えてしまうけれど、「歌」は歌う人がいる限り、無くならない。
思い出はいつも綺麗。思い出に負けないように、という営み自体が思い出になっていく。それでもやっぱり、思い出に負けないように。

 

書籍『世界はラテン語でできている』

著・ラテン語さん。普段のツイートからして非常に参考になるため、こちらの本も買った。
ラテン語という言語を、様々なトピックから見ていく。英語の語源学を齧っている身としては、とても興味深かった。
興味深かったものをいくつか並べておく。

  • 英語story(階)はラテン語historia(階)に由来する。なぜ「物語」から「階」という意味が派生したのかというと、「キリスト教に関する《物語》の場面を描く彫刻が飾られるような、教会の一部分」という意味が中間を担った。
  • イタリア語「スパゲッティ・ペスカトーレ(spaghetti alla pescatora)」は「漁師風スパゲッティ」の意で、pescatoraはラテン語piscis(魚)が由来。piscisの複数形がpiscesで、Pisces(うお座)に繋がる。
  • 慶應義塾大学三田キャンパスの東門には、"HOMO NEC ULLUS CUIQUAM PRAEPOSITUS NEC SUBDITUS CREATUR"と書かれている。これは「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」のラテン語訳である。

ヤマザキ [中略]…日本も古代ローマ多神教がベースの社会組織です。『博物誌』には数々の怪物や幽霊が出てきたりしますが、現代の合理主義的価値観が根付いたイタリア人には笑い話で処理されてしまうでしょう。でも日本は妖怪文化が根付いている国ですからね。子供の頃から水木しげる先生を大師匠と捉えている私にとって、プリニウスの世界観はまったく難なく入り込むことができました。

電子版『世界はラテン語でできている』p.199

 

漫画『暗殺教室

…ねぇカラスマ
「殺す」ってどういう事か…
本当にわかってる?

ずいぶん前に10巻くらいで読むのが止まってて、やっと全部読み終えた。

めちゃくちゃ良い漫画だった。漫画が上手すぎる。漫画が上手すぎて読んでて苦しくなる。特に、物語の転換点になる16巻141話は白眉。それまでの流れを受けて、「殺す」ということの意味を顧みさせる構成が見事。

「見つけてくれてありがとう」の話だった。目の前の人間をただ抽象的な属性に還元するのではなくて、 個別具体の存在とみなす。私はこういうのを「愛」と呼んでいる。

「本物に成り代わりたい偽物、だけどどうやっても本物には勝てない偽物」概念も登場するので、もうウキウキでした。

アニメ映画『美女と野獣』(1991年)

https://www.disney.co.jp/studio/animation/0269

「怪物は彼ではなくあなたよ!」

内容がうろ覚えだったので、ずっと見直したかった(『竜とそばかすの姫』の影響)。今月末からDisney+に加入したので、さっそく見た。

流石ディズニーの古典、映像が楽しい。

ベルは「周囲からしたら夢みがちで変な子」という描写があったのは忘れてた。でも外面が可愛いから伊達男に求婚される。それに対して、野獣(元王子)の内面は外見の通りに粗野なところもあるけれど、優しい一面もある。その優しさは、外見の獣性が搔き消してしまって、簡単には他人に伝わらない。

見た目でなく内面でもって愛されることで、内面を愛することができるようになる、という話だと思った。