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FGO 第2部 第6.5章『死想顕現界域 トラオム』感想

書き殴り。個人の感想。

FGO第2部第6.5章までのネタバレを含みます。

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FGO第2部第6.5章『死想顕現界域 トラオム 或る幻想の生と死』の感想を書いておこうと思う。

 

ざっくりとした感想

とても良かった。物語・虚構・夢・嘘。誇りと愛。詳しいことは後で書くけれど、6章の後の物語としてはまあまあ良かった。

とりあえず、モリアーティ(裁)は絶対に引く。そもそも新茶がメチャクチャ好きなので(Lv100にしている)。新茶に比して、セリフと見た目は好みだけど、性格がうーん……と思っていたが、よくよく考えてみると結構好きな気がしてきた(後述)ので、やはり引く。まあ、セリフと見た目は好きだからな(声帯は伊藤健人さんっぽいし。伊藤健人で数学と聞くとどこぞの32歳数学教師を思い出すのですが気のせいだろうか)。

宝具演出。楽しそう。

宝具名は「数理的悪性摘出(マセマティカル・マリグナント・アナイアレイト)」。ルビ部分は恐らく英語で mathematical malignant annihilate だろう。mathemeatical は mathematics の形容詞形で「数学的な」。malignant は「悪性の」を意味する形容詞。annihilate は「完全に破壊する」を意味する動詞。Fateではいつもそうだが、通常の英語の語法ではない。annihilate が「摘出」に対応しているのは興味深い。annihilate は ad "to" + hinil "nothing" という構成で、「無に帰す」ほどの原義である(ニヒリズム(Nihilism;虚無主義)は聞いたことがある人も多いと思う)。この若モリアーティには似合っているような気もする言葉だ。

張角千葉茂さんだし、ドン・キホーテ飛田さんだろうし、ここも引かねば。トラオムPU2は「★5 モリアーティ(裁)、★4 ドン・キホーテ、★3 張角」で予想しているのだが、どうか。私にとっては、全員引く必要がある。ストーリー中に露骨な体験クエスがあったし、来ると思うんだけど……。

クリームヒルトは結構好きな女だった。ストーリー読む前に2枚引けてた。結構好きなセリフがあった。中でも好きなセリフ。

クリームヒルト「愛の交歓みたいね。そういうの、好きだわ。
張角「ほ。嫌いかと思いましたが。」
クリームヒルト「好きよ。そういうの、とても無様だもの。
張角「どちらに当たるか、賭けますかな?」
クリームヒルト「止めておくわ。そういうのは、無様だからこそ結果を真摯に受け止めないと。

源為朝がヨハンナを狙撃する場面、コンスタンティノスが身を挺することを予想してのセリフ。無様なものをこそ真摯に受け止める。好きだ。

うっかりしてマーリンとオベロンを共演させてしまったが、バフはなんとか成功したので助かった。

ジークフリートとクリームヒルトのカップルはとても良かったです。

 

架空の存在

今回のお話は、物語虚構ということが至る所で言及されていた。そもそもタイトルの「トラオム(Traum)」はドイツ語で「」「あこがれ」の意である。

今回登場する(名有りの)サーヴァントは架空(物語上)の存在が多い。おさらいしておく。

といった、「物語の登場人物」(架空の存在)の英霊が大半を占めている。ホームズやモリアーティは言わずもがな探偵小説の登場人物。女教皇ヨハンナはストーリーでも散々言われていた通り創作上の人物とされている。ジークフリートとクリームヒルトは叙事詩ニーベルンゲンの歌』の登場人物。シャルルマーニュとその勇士は言うまでもなく「シャルルマーニュ伝説」を出典としている。ディルムッドはケルト神話の人物だ。清姫紀州道成寺にまつわる伝説に由来する。サロメ新約聖書の登場人物だし、もっといえばオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の要素が強い。

中でも異彩を放つのは、ドン・キホーテである。言うまでもなく、彼はセルバンテスの小説『ドン・キホーテ』の主人公である。この小説は、アロンソ・キハーノという貴族が騎士道物語の読みすぎで現実と物語の区別がつかなくなり、遍歴騎士「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗り冒険をする物語である。言わば、「ドン・キホーテ」という存在は原作からして架空の存在である。ヴラドの言う通り、物語に憧れ、物語と成った遍歴騎士である。加えて、サンチョの一要素を構成する「ドゥルネーシア」はドン・キホーテが近隣の村の娘を元に創作した存在である。空想(物語)の中の空想である。

 

これらに対して、史実の人物のサーヴァントも登場する。

  • ヴラド三世(狂)
  • 張角
  • 源為朝
  • 徐福 (史実かは怪しい?)

これらは史実に名を刻んだ人物たちではあるが、今回は創作の影響を大きく受けているように読み取れる。ワラキア公国の君主、武人としての側面は槍ヴラド(EXTRAヴラド)が追っているのに対して、ヴラド三世(狂)は「吸血鬼伝説」の影響を強く受けた状態での召喚である。張角も史実の存在だが、ストーリー内で「大賢良師」と呼ばれていたことから、小説『三国志演義』の側面が強そうである。源為朝も伝説寄りの要素が強そう(てか項羽みたいになってたし……fateだと実際にあんなだったって設定なのかな)。徐福は不老不死の霊薬絡みで日本に渡来したとか絡みで数多の創作がある。

 

しかし、異質なのがコンスタンティノス11世だ。彼はもちろん史実の存在であるし、物語の尾ひれがそれほどついていないように見える。彼がこのメンツの中にいるのはどういったことだろう。もしかしたら、ローマ帝国最後の皇帝として、一つの時代(歴史)の節目を象徴する人物なのかもしれない。若モリアーティもこう言っていた。

モリアーティ「歴史は人が紡ぐもの。知的生物の存在しない時間の流れは、誰にも知覚されることがない。ここに虫ケラが這いずり回っていたとして、一年二年経っても這いずり回っていれば。それは、時間が流れていないとも言える。この特異点はその逆。サーヴァントは、人の歴史の歩みそのものだ。あらゆる世界、あらゆる国家、あらゆる民族にいた英雄、反英雄が召喚され続けるこの特異点は。人間が歩んだ道が、バックグラウンドに存在すると言ってもいい。」

ローマ帝国に代表される「中世」というものは、後世の人々にはひとつの閉じた「物語世界」に見えていた、ということかもしれない(「物語」を表す romance という単語は、ローマ(Roma)が語源である)。ローマ最後の皇帝は、その象徴たりうる。

 

「それでも」

ヨハンナはストーリー中、たびたび自分が架空の存在である事に思い悩む。

――罪深い。
人が死ぬことは悲しく、恐ろしい。人が生きることは気高く、美しい。
そして人を殺めることは、何より罪深い。
だが。その罪は、私に該当するのだろうか。
私は夢と、妄想と、希望と、絶望で形作られた、空想上の人物(キャラクター)だ
それが人を殺したとして、傷つけたとして、その罪は、弾劾されるべきものか。
ヨハンナ「――それは、もちろん。」
……罪に決まっている。でも……。
それでも、私は、現実という織物(テクスチャ)には、朧にしか存在しない生命体。
自分の人生と想いが何もかも虚偽だった
……踏みにじられた想い。徒労のような人生。
八つ当たりなのだろう、と思う。
それでも、それでも私は。
この狂おしい憤怒を、鎮める術をついぞ見出せなかった。

《架空の存在である》という存在であるが故に、その言動の一切が架空になってしまう」というのは、見覚えがある。オベロンだ。彼については、私はまだちゃんとした答えを見つけられていないので割愛するが、オベロンも6章でそういったことを言っていた。ヨハンナはそこに怒りを抱いている。これが彼女の、汎人類史に対する叛逆心の源泉だ。

しかし、18節でシャルルマーニュから次のような言葉を告げられる。

ヨハンナ「私はそれが、どうしても分からない。どうして、あなたは耐えられるの? 自分の人生が、無意味な空想だと理解しても。」
シャルルマーニュ「んー……。俺は、俺がここにいると信じてくれた人のために、剣を振るうからかな。現実(テクスチャ)に残ってなくても、いいじゃないか。夢と誰かに思われようと、いいじゃないか。」

これは、ヨハンナがコンスタンティノスと初めて対面したときに言っていたセリフに対応している。

ヨハンナ「――まあでも。生まれてしまったものは、しょうがない。私は私を否定する誰かのためではなく、もっと別の何かのために。この身、この命を捧げるのです。ご満足でしょうか、皇帝陛下。」

「もっと別の何か」に具体的な答えを与えたのがシャルルマーニュ、という形になる。

シャルルマーニュ「で、だ。恨みや怒りは、晴れないかもしれない。でも、それでいい。そも、汎人類史に怒りを覚えているヤツなんて、結構いるもんだ。……そして、『それでも』と言えるヤツだけが、召喚に応じているんだろうな。」

架空の存在、空虚な存在とヨハンナは嘆くのだが、そもそもあらゆるものはデフォルトでは意味などない(と私は思っている)。あらゆるものは無意味で無価値だ。そこに意味やら価値やらを見出すのは人間である。「こんなものは無意味だ」で終わるのではなく、「こんなものは無意味だ。だがそれでも、私にとっては意味/価値がある」とするのである。これはまさに、人間の活動の本質だと思うわけだが、「誇り」であり「」である。

 

価値あるもの、無価値なもの

3つの界域に分かれてサーヴァントたちは戦っていたわけだが、その誰もが譲れないものを賭していた。他の人にとってはどうでも良いかもしれないが、自分にとっては譲れないもの。他の誰にも分かられなくていい、自分にとって最も大切なモノ

  • ぐだを救出した7騎の名無しのサーヴァントたちは、ぐだに命を賭すだけの価値を見た(充実した無名の墓)。自分たちの誇りに賭けて、名前も知られずに散っていった彼らは、しかしひとつの命を繋いだ。
  • サロメにとって、価値あるものはすべてヨカナーン、つまり首を貰い受ける(殺す)対象となってしまう。ぐだのことをもう少しでヨカナーンと見なしてしまうところだったが、ぐだの命乞いを受け、ヨカナーン(価値ある者)ではないと気付く。それでもサロメは最後までぐだを助ける。《燻る焔のような感情》を抱きながら、誰かを救うことで自らを救ったのだった。
  • サンチョはドン・キホーテ以外の全てを犠牲にしようとも、ドン・キホーテだけは生き永らえさせようとしていた。裏切らないことや逃げないことを二の次とし、生存に何よりも価値を置いた。これが彼女の行動原理、ドン・キホーテへのであった。
  • ドン・キホーテはそんなサンチョの献身に感謝しながらも、逃げる自分に罪悪感を抱いた。騎士物語に憧れて騎士になりきった物語、その主人公。どれだけ愚かでも最期まで失わなかった誇りを失わないために、皇帝に決闘を挑む。現実から逃げずに立ち向かうその姿は、大帝も認める本物の騎士道だった。
  • コンスタンティノスは、ただの通り魔と化していた自分に戦う意味を与えてくれたヨハンナに献身する。虚構だが本物の想いを持った彼女を、本当の存在にすることを志した。「大地に足を踏みしめて欲しい。大きく息を吸って欲しい。大声で叫び、大声で笑って欲しい。」というコンスタンティノスの願いは、まさに「存在してほしい」という願いであった。構造上、本当に無意味/無価値なものはその存在すら知覚できない。もっといえば、無意味/無価値なものを存在だとは見なさないのである。コンスタンティノスは「第二の生とは、そうでなくては。」と言って、愛(価値)を為した第二の生を終えた。
  • ヨハンナは汎人類史への憤怒を抱きながらも、弱者の嘆願に耳を傾けずにはいられない。架空だったとしても、誇り高き愛を力にする教皇なのである。
  • ブラダマンテはかつての同志たるシャルルマーニュたちと敵対することになっても、ヨハンナを護ることを選んだ。
  • アストルフォは心臓を貫かれても源為朝を討つ。ずる(ヨハンナの聖言)をしたから今回は誇れないが、次回勝ったら誇ってやる、と言いながら退去した。
  • ローランは「今回の自分」の全てを投げ打ち、皆に託した。次の誇りにすらならずともよいと。架空の存在であっても価値を生もうと足掻く者の多いトラオムの物語の中で、彼は誰の記憶・記録に残らなくても、意味を残した。その意味の出所が誰にも知られないとしても、彼は満足して消えた。
  • アナスタシアの愛の残滓がカドックの命を救う。まだ許されないらしい。そんなカドックは劣等感に襲われるのではなく、アナスタシアのマスターであったことを誇りを感じた。
  • クリームヒルトはジークフリートへの一途な想いが却って憎しみになってしまったが、それこそ彼のことを無価値とは思っていない証左だ。何よりも重きを置いている。また、ジークフリートは最後には英雄としてではなく彼女に寄りそう夫として振る舞った。愚かな願い(他人にとっては無価値に見える願い)だと自虐しながらも、彼は妻のために戦った。

ドン・キホーテ「そも、戦いとは無意味なもの! 人生とはほぼ無意味なもの! さりとて、なげやりに過ごしたりしてはいけない。妄想に囚われてもいいが、妄想に対して不真面目でもいけない。ワシは騎士になるという夢に囚われた。だから、騎士として尽力した。騎士になる夢に囚われたのに、乱暴狼藉を働く山賊に堕落する訳にはいかぬじゃろ?」

無意味なものに、意味を見出して回るのが人生だと思う。意味や価値を見出したものに対して、他の何かを犠牲にしてまで専心することが生きることだ。ドン・キホーテはそう言っているようである。

愛や誇りは究極的には絶対的に主観的なもの。客観性とは対極に位置する。「無関心」を英語では indifference という。これは「区別(difference)をつけない(in)こと」、即ち客観性と結びついた概念である。客観的世界観ではすべてのものが等距離にあり、贔屓が為されない。愛は個別に宿るのであって、抽象的性質には帰され得ない。

そういった意味で、冷淡な男、若モリアーティは客観的であるが故に、誇りも愛も欠けている、ということなのだろう。(いわば、数学的だ。)

その上方に佇むモリアーティを見る。能力は図抜けている。戦術と戦略も練り上げられている。何より、本心からそう言っている。それくらい、僕にも理解できる。だから裏切るというのは本当のことなのだろう。そして彼を迎え入れれば、カルデアが更に効率的に物事を解決できるのも。決して『論外だ』と断言していい案ではない。だが――ただ一つ。そこには、誇り(プライド)が欠けている。

 

運命の糸を手繰るモリアーティ

このトラオムの物語では、「紡ぐ」という言葉が各所で使われている。「歴史を紡ぐ」「物語を紡ぐ」というふうに。「紡ぐ」とは「綿や繭を錘(つむ)にかけて繊維を引き出し、糸にすること」である。転じて、「様々なものをより合わせて1つのものにすること」も意味するようになっている。歴史も物語も紡がれるものだ。単一かつ同質の糸ではなく、多様で異質な糸が複雑に絡み合って出来上がる物。

第21節、モリアーティに複合された神性が北欧神話の「運命の三女神(ノルニル)」だと明かされる(ノルニルはノルンの複数形)。ウルズ、ヴェルザンディ、スクルド。運命の糸を紡ぐ存在とされる。

カドックの見解では、上記の引用の通り、このモリアーティには誇りが欠けている。愛や誇りをもって戦い抜いた3界域に対して、その裏で暗躍し糸(=運命)を引いていたモリアーティには誇りが欠けていた、というのは皮肉が効いている。

モリアーティにとり、汎人類史への叛逆は「物語の筋書き(運命)を乗り換えること」だったが、運命を超克しようとして運命を終わらせてしまい、命運が尽きた。モリアーティはホームズありきの存在であるがゆえに、ホームズが消えた時点で運命の糸が潰えてしまう。

かっこいい。

新茶は幕間「静かなる時を求めて」でホームズに疑いの目を向けている。ホームズはなぜカルデアにいるのか。そして、「モリアーティは悪人だが、それと対をなす者が善人であるとは限らない」と述べている。これは今回のホームズの独白とも関連する(伏線)。

私は自らの記録を、記憶を消した。それは『異星の神』の使徒である事を隠すためではない。『異星の神』の使徒である事を思い出してしまえば、その性質上、『異星の神』に協力するしかないからだ。それが私、シャーロック・ホームズの在り方。人類を裏切る、カルデアを裏切る、という話ではない。私は、私の信条を裏切るために、不細工なカバー・ストーリーを作り上げた。召喚された時点の、人類史に刻まれた私――善悪に寄らない推理を行う冷徹な私から、カルデアの人々に好まれる、『善』に寄った推理をする私を作ったのだ。過去の、或いは幻想の、私のように。

 

幕間の最後には下のように述べている。

ホームズとモリアーティが相互作用する存在(概念)だということはここや、新宿のメインストーリーからも窺える。

また、今回のホームズの最期は新宿における新茶と重なる。

新宿のモリアーティは、悪を為すために、悪性を封印した状態で「善のモリアーティ」として主人公に近づいた。正義の味は存外悪くない

ホームズもいうなれば冷酷な部分が封印された「善のホームズ」であったわけだが、その目的は悪を為すことではなく、善を為すことであった。この日々が楽しかった

 

終局

トラオムのマスターは誰か?という謎の答えは「被検体:E」と告げられたものの、時々触れられた「汎人類史への反逆の感情が正当である」ということの謎は持ち越しになった。というか、そもそも「被検体:E」が謎なのである。様々な謎が解消されはしたが、謎が謎を呼んでいる状況である。次回のメインストーリー更新まで楽しみに待っていたい。証明不能。Ex Falso Quidlibet はラテン語で「偽なる命題からは何でも帰結する」(爆発則)の意。

 

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